1992年9月28日。ネパールのカトマンズに着陸のため降下を続けていたパキスタン航空の旅客機が消息を絶つ。数時間後、空からの捜索でヒマラヤ山脈の山腹に激突した残骸が見つかる。軍の支援のもと調査官たちは高く険しい山岳地帯の現場調査に挑み、ブラックボックスの回収に成功する。そして音声データが回復されたコックピット・ボイスレコーダーに原因発見の望みを託すが、そこにクルーたちの会話は残っていなかった。
2016年1月8日。ノルウェーのオスロから北極圏のトロムソに向かっていた貨物機がメーデーを発し、制御を乱してスウェーデン国境を越えた地点に墜落。翌日、墜落現場から壊れたブラックボックスが発見され、乗員の遺体とともに回収される。懸命なデータ回復の取り組みに成功したボイスレコーダーから聞こえてきた音声は、混沌と混乱に満ちた恐ろしい状況だった。順調に飛行を続けていた機内で、何が唐突に起こったのだろうか。
1999年8月24日。台湾の台北発花蓮行き国内線旅客機が着陸をして滑走路を走行中に爆発が起き火災が発生した。荷物や機体の一部は滑走路に散乱、炎が激しく天井部分は焼け落ちた、国際的な事故調査チームが原因究明に乗り出すが爆弾の痕跡は見つからなかった。残骸を丹念に観察する地道な調査が続き、ついに座席頭上の手荷物収納棚に大惨事を引き起こした驚くべき物を発見する。果たしてこれはテロかあるいは事故だったのか。
1990年12月3日。濃霧に覆われたデトロイト空港では離陸しようとするノースウエスト航空1482便のDC9が誘導路で迷子になり使用中の滑走路に停止してしまう。その滑走路の逆側からはノースウエスト航空299便のボーイング727が離陸滑走、翼がDC9の胴体を切り裂き8人が死亡する事故となった。調査が進むにつれ、衝突につながった出来事がパイロットの人間性によるものではなかったかという疑いが生じてくる。
2010年8月16日。コロンビアのボゴタからカリブ海の小さな島サン・アンドレスに向かうアイレス航空8250便は目的地手前で熱帯暴風雨に遭遇。視程が急速に悪化するなか、悪天候を抜けて着陸できると考えたクルーは、最終進入中に滑走路端から80メートル手前の地面に衝突。機体は大破するがそのまま滑走路上を滑って3つに分解した。機長は落雷を受けたと主張するが、調査のなかで浮かび上がってきたのは別の姿だった。
2011年5月18日。アルゼンチンの荒野にSOL(ソル)航空5428便が墜落。乗員乗客22名は即死した。事故機はコルドバ発コモドロリバダビア行きサーブ双発ターボプロップ機で途中メンドーサ、ネウケンに寄港、最後の区間で機首から墜落した。調査官たちは焼け焦げた残骸を調べるが空中分解の形跡はなく、エンジンもプロペラも異常はなかった。チームはさらに着氷を疑うが、問題は除氷装置ではなくオートパイロットで見つかる。
2009年3月12日。ニューファンドランド沖の海底油田プラットフォームに労働者を運んでいたヘリコプターが墜落。乗っていた者はほぼ全員死亡したが、1人が奇跡的に生き延びた。墜落から数時間のうちに大規模な回収作業が開始され、海底から犠牲者や押し潰された残骸と共にフライト・レコーダーが引き揚げられる。調査官たちが手掛かりをつなぎ合わせていくと、シコルスキーS92の設計に致命的な欠陥が浮かび上がってきた。
2015年8月16日。インドネシア東部ニューギニア島パプア州の空港に進入中のターボプロップ機、トリガナ航空267便が突然消息を絶った。山頂から立ち上る煙を目指した捜索救助隊は墜落現場を発見、乗客乗員54人全員が死亡していた。墜落したATR42は世界各国の短距離区間で使われ、3種類の独立したシステムが事故を防止するはずだったが、なぜか1つも機能していなかった。調査チームに原因究明の責任が重くのしかかる。
2013年11月29日。アンゴラの首都ルアンダに向かっていたLAMモザンビーク航空470便がレーダーから消えた。捜索が続けられたが、遠く離れたナミビアの国立公園でパーク・レンジャーが残骸を発見する。これまでにない大事故のため、NTSBの調査官たちも調査チームに参加する。調査によって残骸から最初の大きな手掛かりが見つかった。さらに、多くの仮説を排除した結果残ったのは、背筋も凍る恐ろしい現実だった。
2007年5月4日。新造から間もないボーイング737が西部アフリカ、カメルーンの空港を激しい嵐のなか離陸直後に墜落。事故調査チームが現地に派遣される。発見されたケニア航空507便の残骸はマングローブのデルタ地帯で泥と水に埋もれており、生存者はいなかった。調査の結果、悲劇を引き起こした致命的なミスが明らかになる。同時に数々の問題が連鎖的に発生して、ついにらせん状態で地上に落ちていったことがわかった。