2010年4月13日。南シナ海上空。インドネシア発、香港行きキャセイパシフィック航空780便の2基のエンジンが相次ぎ推力喪失。エアバスA-330は重量200トンのグライダーになった。緊急事態を宣言した機長は、壊滅的な洋上着水を回避し、何とか手動で操縦しながらスロットルを動かし1番エンジンの推力を回復することに成功した。ところが、着陸に備えて推力を絞ったはずのエンジンは、大出力で回転を続けていた。
2011年9月16日。砂漠で開催されるリノ・エアレース。第2次大戦の単発戦闘機によるアンリミテッド・クラスの最終予選。3万の観客が見上げるなか、6機は地上30メートルの超低空を時速700キロ超の速度で長さ13キロの楕円コースを飛ぶ。ところがP-51ムスタングを改造した「ギャロッピング・ゴースト」が突然バランスを崩し急上昇。操縦不能のままスタンド前に墜落。航空機レース史上最悪の墜落事故の1つとなる。
1994年4月4日。アムステルダムからウェールズのカーディフに向かうKLMシティホッパー433便がエンジンの不調で空港に戻った。ところが着陸しようとしたところ、突然右に傾き、主翼が地面に接触。墜落して滑走路脇の草地で分解した。乗っていた24人のうち乗客2人と機長が死亡した。オランダの事故調査委員会が調査を進めると、ある回路の些細な問題をきっかけに、一連のエラーが発生し、破局に至ったと分かる。
1993年8月18日アメリカの貨物機がキューバのグアンタナモ湾にあるアメリカ海軍基地に難しい着陸を試みる。滑走路はキューバ兵が銃を構える境界の柵から1200メートルのところにあり、領空侵犯は許されない。ところが進入の最終段階で問題が起き、DC-8は滑走路手前に墜落した。キューバの関与も疑われるなか調査チームが明らかにしたのは、場所がどこであれパイロットの命を脅かす、目には見えない重大な原因だった。
1997年8月7日。40トン以上のデニム生地を積み、マイアミからドミニカ共和国に向かって離陸したファイン航空101便が滑走を離れた直後に機首を急激に上げ、その後失速して墜落。地上を滑りフリーウェイを横切って向かいの建物に突進し、乗員乗客4人全員と地上の1人が死亡した。墜落の光景は何百人にも目撃されるが、調査チームは原因を解明できない。ところがある内部告発をきっかけに、調査は新たな展開を見せる。
1995年3月31日。ルーマニアのブカレスト空港を離陸上昇中のタロム航空371便が急激に左に傾き、飛行コースを外れて墜落、ルーマニア航空史上最大の惨事に。目撃証言に空中での爆発を示唆するものが多く、報道機関は爆弾テロの憶測記事を流布する。事故調査チームはFBIの協力をあおぎ爆弾テロの痕跡を探す。しかしテロではなかった。ボイスレコーダーの解析が終わり、聞こえてきたのは思いもかけない機長の声だった。
2008年12月20日。アメリカのデンバー国際空港を離陸中のコンチネンタル航空1404便が突然左を向き滑走路を大きく飛び出して暴走、敷地内の窪地に落ちて炎上した。乗っていた乗員乗客115人全員が死を免れたものの、調査チームには原因究明の責任が課される。調査当初は、他のボーイング737でも起きていた致命的な機械トラブルの再発が原因かと危惧されたが、真の原因はロッキー山脈にあったという事が判明する。
2008年9月14日。モスクワからペルミに向かう地方路線のアエロフロート・ノルド821便が最終進入の途中でシベリア鉄道の軌道上に墜落。機材のボーイング737は跡形もなく炎上、88人全員の死亡が確認された。調査チームは当初、737で多発した方向舵の設計ミスが原因ではないかと疑う。しかし調査を進めるにつれ、原因はパイロットにあり、しかも国の航空システムの変革さえ必要な衝撃的なものだったことが判明した。
2016年11月28日。ブラジルのサッカーチーム、シャペコエンセの選手たちが乗ったラミア航空2933便はコロンビアのメデジンに向かって最終進入に入るが、突然クルーが燃料の緊急事態を宣言。管制官が対応する暇も無く、機体は山頂に激突、ほぼ全員が死亡した。サッカー界が悲嘆にくれる中、調査チームは原因解明の圧力にさらされる。証拠を丹念に検討していくと、強欲と無謀な賭けの驚くべき物語が解き明かされていった。
1994年1月7日。ワシントンDC発オハイオ州コロンブス行きのユナイテッド・エクスプレス6291便が着陸進入中に滑走路からほんの2キロ足らずの地点に墜落した。この事故で乗客のうち3人が地獄から生還したが、3人の乗組員と他の乗客2人は命を落とした。残骸は焼け落ち、調査官が調べるような証拠も残っていない。コックピット・ボイス・レコーダーによって状況が明らかになるまで調査は膠着状態を続けることになった。