デルタ航空191便は、ダラス・フォートワース国際空港への着陸進入中に2つの嵐の直撃を受けた。前方の雷雨の中に入ったかと思うと、今度はすさまじい風で地面に叩き付けられ、136名が死亡する大惨事となったのだ。この事故により、危険が指摘されていたマイクロバースト(小規模で急激な下降風)に関する科学的な研究が進んだ。
静かな夏の夜、モントリオール、エドモントン間を飛行していた新しいジェット旅客機が、不可解なミスのために大変な事態に陥った。2万6千フィート上空で2つのエンジンが停止したのだ。パイロットは操縦能力のすべてとわずかな幸運を頼みに、空港への着陸を試みた。しかし、さらに不運なことに滑走路は閉鎖されていた…。
新品のDC-10で爆発が起き、キャビンに大きな穴が空いた。調査員たちは貨物室後部のドアのデザインに重大な欠陥があることを発見し、改良方法を指導した。ところが2年後、別のDC-10が通常の飛行中にまったく同じ爆発を起こし、悲惨な結末に到った。防げるはずだった事故がなぜ起こったのか?
1987年11月27日、南アフリカを目指して飛行中だったボーイング747コンビのキャビンに煙が充満し始めた。乗客が煙に苦しむ中、乗員が貨物室の火を消そうと懸命の努力を続けたが、機はインド洋上で消息を絶った。事故を受けて前例のない規模の捜索が開始され、海底から事故機の残骸が引き上げられた。295便に違法な武器が積まれていたという噂は果たして本当だろうか?
業務用小型旅客機が短いフライトに飛び立った直後に悲劇が起きた。離陸からしばらくして、機首が突然、上を向いてしまったのだ。操縦士たちは必死でコントロールしようとしたが、350メートル上空で機は失速して降下し始め、左に回転すると真っ逆さまに墜落した。墜落したのは物資が満載された格納庫で、乗員乗客は全員が犠牲になった。残骸を調べた調査員たちは、ある一つの手がかりから、事故原因と思われる問題を暴き出す。同時に、長年に渡って数百万の乗客が危険にさらされてきた事実が判明する。
1977年4月4日、サウザン航空242便がアラバマ州ハンツビルからジョージア州アトランタに向けて飛行していた。離陸10分後に前方に厄介そうな嵐が現れた。しかしレーダーで見ると嵐の中央には穴が空いていたので、その中の天候は安定していると判断した操縦士は穴を通り抜ける決断をした。しかし穴に入ると突然、雨と雹がまざった激しい嵐のまっただ中に放り込まれた。あまりの激しい雹でコックピットのガラスにはヒビが入り、視界がまったくなくなった。操縦室の機器も多くが操作不能となり、エンジンも1機ずつ停止していった。
1985年6月23日、飛行中のインド航空182便が突然レーダーから消えた。そしてわずか数時間後、機体の残骸と犠牲者の遺体が北大西洋で発見された。このボーイング747に乗っていた乗員乗客329人は、何らかの原因で全員が死亡したのだ。大西洋から発見された証拠の複雑な糸をたどって、捜査は日本にも及び、やがてカナダ、ブリティッシュ・コロンビア州のバンクーバーに到った。捜査によって明らかになったのは、182便が爆弾によって墜落させられたという恐ろしい事実だった。過激派はどうやって爆弾を機内に持ち込めたのか?
1996年、バージェンエアー機で、パイロットがクルーからの情報を無視して離陸したために海に墜落するという大惨事が起きた。コックピットの会話記録には、混乱した音声と複数の警報が入り交じっていた。クルーは"対気速度を計測するチューブが昆虫の巣でふさがれてしまっている"という信じがたい情報に大混乱となっていた。事故後の捜査で、パイロットが離陸前の警報サインに注意していれば、事故は防げたことが判明する。
イースタン航空401便がマイアミへの着陸態勢に入った時、着陸装置に異常が発見された。機長は自動操縦に切り替え、クルー全員で異常を調べ始めたが、その間に飛行機はゆっくりと降下し始め、フロリダのエバグレーズ湿地に墜落してしまった。77人の乗員乗客だけが奇跡的に事故から生還し、調査チームはこの飛行機の自動操縦装置は正常だったとの結論を出した。ではなぜ、このジョット旅客機は墜落したのだろうか?
2006年9月、7人を乗せた小型ジェット機と旅客機がブラジルの2つの空港から離陸した。2機のコースは交差していたにもかかわらず、管制塔から高度変更の指示が入らなかったために空中で接触事故が起こり、両機とも片翼を損傷した。小型ジェット機は奇跡的に着陸に成功してケガ人も出なかったが、旅客機のほうはアマゾンの熱帯雨林に墜落。衝突防止システムの進歩にもかかわらず、甚大な被害を出す大惨事となった。