わたしはマララ

原題:He Named Me Malala

番組内容

「17歳の少女がノーベル平和賞を受賞!」2014年、世界中がそのニュースに湧き、パキスタン生まれのマララ・ユスフザイは一夜で時の人となった。この輝く瞳でまっすぐ前を見つめる可憐な少女が、いったい何を成し遂げたのか?

パソコンで大好きなブラッド・ピットやテニス・プレイヤーのフェデラーの画像を見てはにかむマララは、どこにでもいるふつうの女の子。しかし、左眼のあたりに傷跡が残る。女子が学校へ行くことを禁じるタリバン政権を批判するブログを書き続けたために、15歳の時に銃撃され瀕死の重傷を負ったのだ。

カメラは最愛の娘の死を覚悟した両親をとらえる。苦労して大学に進んだ父は、母と結婚して生まれた娘に、アフガニスタンの英雄的な少女マラライの名に因み、“勇敢”という意味も持つ“マララ”と名付けた。やがて父は男女共学の学校を設立する。全ての女の子に教育をというマララの夢は、父の希望でもあり、字の読めない母の悲願でもあった。

マララは再び立ち上がり、家族の愛と平和を望む世界中の人々の願いに守られながら、自らの手で宿命を変えた。
「ノーベル平和賞は始まりにすぎない」とマララは言う。ふつうの女の子が、目の前の小さなことから世界は変えられるよと、私たちの未来を祝福してくれる感動のドキュメンタリーが誕生した。

番組概要
その昔、勇敢な少女がいた。イギリスに侵攻されたアフガニスタンを救うため、彼女は「奴隷として百年生きるより、獅子として1日を生きたい」と叫んで兵士に希望を与え、自ら前線に立ち銃弾に倒れた。少女の名前はマラライ。その名を父から付けられたマララ・ユスフザイは、2012年10月9日、タリバンに頭部を撃たれ、昏睡状態に陥った。パキスタンで「女子に教育を」と訴える活動を続けていた15歳の少女は、伝説の少女と同じ運命を辿るのか?世界中が見守るなか、マララは奇跡的に一命をとりとめた。

2013年、イギリス、バーミンガム。緊急手術のため海を越えて病院に運び込まれたマララは、退院してからも家族と共にこの国に暮らしている。カメラに向かって、末っ子のアタルは「とてもいい子」で、上の弟のクシャルは「怠け者」だと、楽しそうに紹介するマララは、ふつうの女の子にしか見えない。娘が「世界的活動家になると信じていた?」と聞かれた父は「そのとおり」と胸を張る。

マララが生まれた時、特別な子だと感じた父は、パシュトゥン人としてはあり得ない行動に出た。女性の身分が低いために300年前まで遡っても男性の名前しかない家系図に、父はマララの名前を書き込んだのだ。
 「帰国すれば殺す」と声明を出すタリバンに対して、「怒りはない」と微笑むマララ。タリバンがスワート渓谷にやって来たのは、2007年のことだった。リーダーのファズルッラーは、最初のうちは魅力的な善人に見えたと言う。その頃、マララの父は自ら設立した小さな学校で、校長に経理、掃除係まで兼任していた。幼い頃から遊び場代わりに学校へ通っていたマララは、学問を通して自分の意見を主張することの大切さを学んでいた。

だが、マララの母を始めスワートの女性の大半は読み書きができない。無学な彼女たちの多くが、タリバンに易々と洗脳されていった。やがて彼らはCDやTV、パソコンを燃やし、反発する者たちを襲撃、マララの父も幾度となく殺害予告を受け取る。ついにタリバンは女子教育を全面的に禁止し、従わない学校を爆破した。

世界中のジャーナリストが取材に来たが、住民はタリバンを恐れて口をつぐむ。だが、マララはペンネーム“グル・マカイ”の名で現状を訴える日記を英BBC放送のブログに投稿した。それでも激化する戦火に耐えかねたマララは、今度はカメラの前でタリバンを非難し、銃弾を浴びることになったのだ。
過酷なリハビリに耐えて笑顔を取り戻したマララは、以前より一層活発な活動を開始する。16歳の誕生日に国連で行ったスピーチで、決意を語るマララ。そして、「君の人生は父親が選択したのでは?」という多くの人々が抱いた疑問に対して、今マララの口から真実が明かされる。

出演者
マララ・ユスフザイ
1997年7月12日、パキスタン北部の山岳地帯スワート渓谷生まれ。
10歳の時から、女子が教育を受ける権利のために活動している。ペンネームを使い、タリバン支配下での生活について、また少女の教育を推進する意見についてイギリスBBCのブログを書く。2009~10年にTVのインタビューとドキュメンタリーで身元が明らかになる。
2012年10月、バスで学校から家に向かう途中、タリバンに頭と首を撃たれる。このとき二人の友達も負傷する。イギリス中部バーミンガムの病院で治療を受ける。
2013年1月に退院し、3月にはバーミンガムの女子高に登校するようになる。少女の権利のための活動を続ける。全世界で少女が良質な教育を受ける権利に焦点を当てた非営利組織、マララ基金の共同設立者となる。
パキスタン初の国民平和賞の他、国際こども平和賞、アムネスティ・インターナショナル良心の大使賞、思想の自由のためのサハロフ賞など数多くの賞を受賞する。
2013年7月12日、16歳の誕生日にニューヨークの国連本部で演説し、「タイム」誌の“パーソン・オブ・ザ・イヤー”最終候補者4人のうちの一人に選ばれる。
2014年、児童の権利の分野における活動に対し、カイラシュ・サティヤルティと共に、ノーベル平和賞を最年少で受賞する。
2015年7月、シリア難民のための女子校をレバノンで開校。

ジアウディン・ユスフザイ(父)
ゴードン・ブラウン国連グローバル教育担当特使の特別顧問。マララ基金の共同設立者。1969年、パキスタン北部スワートのシャングラ生まれ。幼い頃から吃音だったが、自分に期待をかける祖父を喜ばせたいがために、13歳の時に弁論コンクールに出ると言って周囲を驚かせる。徹底的に練習を重ね、情熱のこもったスピーチを披露し、優勝を手にする。成績優秀で、スワートで最高の教育機関であるジェハンゼブ大学に入学できることになるが、祖父に大学に行くなら生活の面倒は見ないと言われ、仕方なく教師だった叔父の手伝いをする。ある時、別の親戚から居候を許され、念願の大学に通えることになる。卒業後、英語教師として大学に勤め、1995年に男女共学の小学校「クシャル・スクール」を設立、2003年にはハイスクールを併設する。2008年以降、スワートを支配するタリバンから度々殺害予告を受ける。2012年、娘のマララがタリバンに銃撃されたのを機に、イギリスのバーミンガムに家族で移住する。

トール・ペカイ・ユスフザイ(母)
パキスタン北部スワートのシャングラ生まれ。6歳の時に学校に通い始めるが、当時パキスタンでは女子が教育を受けることは珍しく、クラスで女の子は一人だけだった。他の女の子たちが皆家に残って遊んでいるのを見て、結局自分も教科書を売り、そのお金でお菓子を買って学校を辞めてしまう。そのため今も読み書きはできない。良質な教育を受けられなかった自分に代わって頑張ってほしいと、今では娘のマララの教育活動を力強く支えるサポーターである。
長男に15歳のクシャル、次男に11歳のアタルがいる。

監督・製作
デイヴィス・グッゲンハイム
1963年、アメリカ、ミズーリ州生まれ。アメリカの元副大統領アル・ゴアの環境問題に関する講演活動を追いかけた『不都合な真実』(06)で高い評価を受け、アカデミー賞R長編ドキュメンタリー賞を受賞する。その他に手掛けたドキュメンタリー作品は、『ゲット・ラウド ジ・エッジ、ジミー・ペイジ、ジャック・ホワイト×ライフ×ギター』(08)、『スーパーマンを待ちながら』(10・未) 、TV映画「Teach」(13)など。選挙キャンペーンのためのバラク・オバマ大統領関連の作品『A Mother’s Promise: Barack Obama Bio Film』(08)、短編『The Road We’ve Traveled』(12)、『Obama 2012 Convention Film』(12)も監督した。
TVシリーズでも活躍、「NYPD BLUE ~ニューヨーク市警第15分署」(95~96)、「ERⅢ 緊急救命室」(96)、「24 TWENTY FOUR」(02)、「ザ・シールド ~ルール無用の警察バッジ~」(03)、「デッドウッド ~銃とSEXとワイルドタウン」(04)、「ザ・ユニット 米軍極秘部隊」(06)などの数エピソードを監督する。また、デンゼル・ワシントンがオスカーに輝いた『トレーニング デイ』(01)では製作総指揮を務める。

[字] 120分