2003年2月1日、スペースシャトル“コロンビア号”が大気圏へ再突入。音速の22倍の速さで飛行するシャトルは強烈な熱さに包み込まれた。午前8時54分、左翼と左の着陸装置のゲージが異常な高温に達し、シャトルは安定感を失う。その5分後、ヒューストンにある飛行管制センターはシャトルから最後となるメッセージを受けるが、途中で切れてしまう…。
1999年2月23日、絵に描いたようなオーストリアのスキーリゾート、アルプス渓谷の谷間の村ガルチュールは、たった数分でその姿を変えることに——。冬の日の午後、突然グリースコフ山の斜面を18万7000トンの雪が崩れ落ちてきた。その速さは時速418kmに達し、村のセーフ・ゾーン(安全地帯)を直撃。この雪崩で31人が死亡、多数が負傷をした。
1989年1月8日、短距離の定期航空便がロンドンのヒースロー空港から北アイルランドのベルファストへと向かった。ところが離陸直後、エンジンが故障、夜空を火花と炎が照らし出す。機長は近くの空港に向けて方向転換の準備を開始したのだが、コックピットでは悲劇的な事態が発生、このブリティッシュミッドランド航空092便は恐ろしい結末を迎えることになる。
1980年5月18日、北米大陸で最も活発な火山の1つセント・へレンズ山がいきなり噴火した。この記録的な噴火(降灰)により、ほんの数分間のうちに朝は夜のようになり、600平方キロに渡る土地が荒地と化し、57人が命を落とした。何年も活動していなかった火山がなぜ突然噴火したのか?なぜ科学者たちは噴火を予測できなかったのだろうか?
1989年7月19日、ユナイテッド航空232便のDC10-10機が飛行中、ナンバー・ツー・テール搭載のエンジンに破壊的な不具合が生じる。テール・エンジンのファンのディスクが割れたのだ。それにより油圧パイプすべてが切断され、飛行機は操縦不能に。どうにか飛行機を地上へと向かわせるが、機体は米国アイオワ州スーシティーの滑走路へと急落し始める…。
1996年7月17日、ニューヨーク。暑い夏の日、JFKからパリに向かうTWA800便は出発が90分遅れ、230人の乗客乗員は離陸を待ちながら滑走路上で暑さにうだっていた。そしてようやく離陸したと思った30分後、悲劇は訪れた。TWA800便は突然爆発し、約5キロ上空から急降下、ロングアイランド沖に墜落してしまったのだ。
1986年3月15日、午前11時52分。シンガポールのリトル・インディアにあるホテル・ニュー・ワールドが、トランプのごとく倒壊してしまった。建物の中にいる人々はコンクリートと瓦礫の山の下に生き埋めに——。レスキュー隊はがれきの中の小さなトンネルを這って人々を引きずり出し、17人が救われるが33人は救出できなかった。
2002年10月12日、人気リゾートアイランドでもあるバリ島がテロ攻撃の的となった。午後11時7分、多くの観光客で混み合ったクタ・ビーチのパディーズ・バーで爆発が発生。その15秒後、道をはさんだ向かいにあるサリ・クラブが強烈な爆発により破壊。その後テレフォンカード型の爆弾による3つ目の爆発がバリにある米国領事館付近で起こったのだ。
ガールドリヨン、パリ、1988年6月27日。列車の運転手がガールドリヨン駅長に電話をかけてきた。その内容とは、運転している列車がコントロールを失い、パリの主要な駅の1つに向かって下っているというおぞましいものだった。運転手が乗客を暴走列車の後部へと移動させた後、列車は駅に全速で突っ込み、プラットフォームに停車中の電車後部に激突した。
1996年11月21日、午前8時30分頃。プエルトリコのサンフアンで商業ビルが天然ガスもれにより爆発した。33人が死亡し、少なくとも69人が負傷した。このビルはサンフアンのショッピング街、リオ・ピエドラスにあった。6階建てで、中にはウンベルト・ビダル社所有の事務所や店舗が入っていた。捜査により浮かび上がった原因は、ガス漏れだった。
これまで造られた最大の飛行船であり、ドイツ・ナチス政権の誇りであったヒンデンブルグは、悲劇的な運命の終結を1937年5月6日に迎えた。まさにヒンデンブルグは、豪勢な旅の時代の到来を示すものだった。しかし1937年、米国ニュージャージー州にあるレイクハースト海軍基地付近で火事が発生。船体は炎に包まれ、あっという間に飛行船は破壊されてしまったのだ。