ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港とドミニカ共和国のサントドミンゴとを結ぶ代表的なフライト、アメリカン航空587便。9/11のテロ事件から2ヶ月経った2001年12月12日、エアバスA300-605Rはいつもどおりの路線をたどるべく離陸した。午前9時16分、離陸から2分後に大きなトラブルが発生し、587便は非常事態に陥った。尾翼が機体から脱落してしまったのだ。もはや望みはない。機体はニューヨーク市にある住宅地、ロッカウェーに墜落した。ロッカウェーは、9/11事件で受けた心の傷も深い消防士や警察、そしてその家族が住む地区である。この悲劇的な墜落事故により、乗客乗員とニューヨーク市民、合わせて265人の命が奪われた。すぐさまテロの可能性が指摘されたが、設計不良や人為的ミスの可能性はないのだろうか?原因究明を国民全員が待ち望むなか、連邦運輸安全委員会はかつてないほど困難で大規模な航空安全調査を行った。彼らが導き出した結論は、定期航空路線業界を震撼させるものだったのである。
遠洋航路船の黄金時代に、これまでの船をはるかにしのぐ、素晴らしい船が建造された。タイタニック号である。「不沈船」とうたわれたこの船は、技術の粋を集めて造られ、革新的でいて豪華な外観を誇った。しかし航海開始後 数日で、タイタニック号は悲劇的な最期を迎え、史上最悪の海難事故のひとつとして記憶されることになるのである。1912年4月14日午後11時40分、タイタニック号は氷山と衝突し、1500人以上の命を道連れに沈没してしまう。当局はこの巨大な船が沈没した原因を探り、さまざまな噂や陰謀説を打ち消そうと努力してきた。そしてタイタニック号が氷山に衝突したときの状況を再現した画期的な実験により、「不沈の」船がなぜ大西洋の真ん中に沈んでいったのかがついに明らかになったのである。「タイタニック」では当事者の貴重な証言やCG、そして最新の実験をまじえて、タイタニック号の最後の瞬間を再現する。
1972年のミュンヘンオリンピックは、第二次世界大戦後に生まれ変わったドイツの姿を世界に披露するという意味で重要なイベントであった。しかし、開催されて程なく悲劇的な事件に見舞われたのである。9月5日午前4時過ぎ、パレスチナのテロリストたちがイスラエル選手2人を殺害、9人を人質にとった。警察は必死にこの危機に対応しようとしたが、テロリストたちにすべて動きを読まれてしまう。9月6日の午前1時半、事件は選手全員とテロリスト5人、そしてドイツ人警察官1人が死亡するという結末を迎えた。警察がとった行動が不可解であったため、ある選手の妻が事実の究明を求めた。すると、彼女の元に、警察の指令を調査したドイツの公式レポートのコピーが匿名で届き始めたのである。これまで3000件以上の事件を分析してきた人質事件のエキスパートの協力を得て、事件の全貌が少しづつ明らかになってきた。テロリストはどうやってオリンピック村に侵入したのか?警察の救助作戦はなぜ悲劇に終わったのか?どうすれば事件は防げたのだろうか?専門家の意見や目撃者と家族のインタビューも織り交ぜ、最大の疑問に対する答えを導き出していく、目が離せない1時間。
「あちこちで火の手が上がり、ともかく逃げなければと思った」航空母艦フォレスタル艦載機のパイロットだったデイヴ・ダラハイドのこの言葉が、アメリカ軍の歴史において最悪の事故の1つを物語っている。ベトナム戦争中の1967年7月29日、デッキに積まれた6機のスカイホークのうちの1機のパイロットであったダラハイドは空爆の準備を行っていた。しかし、その日彼らを襲ったのは敵の砲火ではなく、自分たちの艦から上がった赤々と燃える炎であった。午前10時51分、パイロットたちが出撃の準備をしていた時に突然爆発が起き、その炎はデッキから艦の内部にまで広がっていった。はじめの爆発でほとんどの消火要員が死亡、消火活動は訓練を受けていない乗組員たちの手にゆだねられた。火は約17時間後に消し止められたが、134人の犠牲者を出した。ここまでの犠牲を出した爆発はなぜ起こったのか?火災の映像や目撃者の証言、そして捜査当局の実験などから、この重大な疑問の答えを探ろう。
1995年6月29日午後5時52分、韓国・ソウルの大型スーパーマーケットが、店内にいた従業員と買い物客1500人を飲み込んで20秒あまりのうちに崩壊し、何千トンものがれきと化した。レスキュー隊が必死の生存者救出活動を始める一方で、500人以上の死者を出した崩壊事故の原因を突き止めるべく、調査班も現場に急行した。テロなのか?それとも町を震撼させ続けているガス爆発なのか?当局が発表した驚愕の事実は、韓国のビルのうちなんと98%までに影響を与えることになる。この番組では、何千トンもの鉄骨やコンクリート、がれきの下に2週間もの間閉じ込められていた生存者の奇跡的なストーリーを伝える。体がようやく入るぐらいのスペースの中、雨水で命をつないだ生存者の口から、恐ろしい体験が語られる。「スーパーマーケット崩壊」では、生存者の驚くべき体験談やニュース映像、コンピューターでの再現などから、崩壊現場の絶望的な状況下での奇跡の生還劇をご紹介する。
2004年12月26日、ここ40年で最大の地震がインド洋深部で発生した。揺れは8分も続き、震源域は1600キロメートルに及び、マグニチュードに至ってはリヒタースケールの想定値を上回るほどであった。午前8時15分過ぎ、広島型原子爆弾3万発分の破壊力に値する何十億トンもの海水が、陸地に迫ってきた。数分のうちに恐るべき水の壁が陸地を襲い、通り道にあった町をまるごと飲み込んでいったのである。激しい潮流と危険ながれきが建物を砕いていく中、南アジアの人々は生き残りをかけた戦いを強いられた。最終的に25万人以上の人々の命を奪ったこの津波は、記録に残っているもののなかでは最も破壊的なものであり、そのケタ外れの規模と破壊力は科学者たちを当惑させた。津波の専門家の調査で、この津波の圧倒的な力は地形的な理由によるものだということが明らかになった。こうして津波予想が見直され、津波は以前想定されていたよりもずっと大きな脅威であり得るということが分かったのである。
ワシントンDC周辺に、冬の嵐が雪を降り積もらせる季節。エア・フロリダ90便は離陸の準備をしていた。1982年1月13日午後4時1分、機は離陸からわずか24秒後に、ワシントンDCの主要な通勤経路である14番通りにかかる橋に激突、その下を流れる氷の張った川に落ちていったのだ。機体は大破、衝突を生き残った5人の乗客と1人の客室乗務員は摂氏1度の川に放り込まれた。重傷を負いながらも機体の破片にしがみついている6人をなんとか救おうと必死に救助活動を行うレスキューチーム。当局は、78人の死者を出した墜落事故の原因を探るが、調査は難航。機体から読み取れる見解と生存者の証言に開きがあったのだ。「ポトマック川への航空機墜落」では、生存者の話やエキスパートの意見、目撃者の証言やドラマチックな再現映像などを軸に、90便が墜落するまでの経緯をたどる。
1954年当時、デハビランド社は世界初のジェット旅客機を製造するなど、定期運行路線ではトップの実績を誇っていた。1954年1月10日 午前10時31分、国際線として最後の航程を終えるべくローマから飛び立った旅客機には、休暇を終えて家に戻る子供たちや有名なBBCのレポーターなど、イギリスに向かう乗客が乗っていた。それから約30分後、機体は高度の高い地点でレーダーから消え、地中海へと墜落してしまったのである。当局は35人の乗客乗員全員の死亡を確認。さらに検視の結果、犠牲者の多くに普通では考えられない傷があることが判明した。それから3ヶ月、原因の調査も終わらぬうちに、2機目のコメットが墜落した。犠牲者の体には、前回の事故と同じような傷がある。定期航空便としてのジェット機使用を禁止せよとの声が高まる中、ウィンストン・チャーチル首相は墜落の原因を政府として調査し、事件や陰謀の可能性から、機体の不備、人為的ミスまで、ありとあらゆる可能性を検討していくよう指示した。その結果判明した墜落の理由とは?そして犠牲者の体に残された謎の傷の原因とは?
1979年5月25日、マクドネル・ダグラス社製のDC-10型機は、レジャー客やビジネス客を乗せてアメリカ合衆国 シカゴのオヘア空港を出発した。しかし午後3時4分、離陸からわずか31秒後、トレーラーハウスが立ち並ぶ区域に墜落してしまったのである。何百人もの目撃者が、離陸の際に主翼からエンジンが脱落するのを見たと証言したが、DC-10型機にはエンジンが3基搭載されており、1つでも機能していれば飛ぶことができるはずなのである。クルーはしっかりと訓練を受けたベテランであり、機体は数週間前に定期メンテナンスを受けたばかりだ。273人の命を奪った191便墜落事故はなぜ起きたのか。連邦運輸安全委員会は機体の残骸を集めてもう一度航空機の形にし、詳しい調査を行った。その結果導き出された恐ろしい結論は、航空機保守規則を強化させることになるのである。
1974年4月3日、合衆国の「竜巻の通り道」地域に住む人々は、母なる自然の力の恐ろしさを実感していた。1つの嵐から1日にして148もの竜巻が生まれ、13もの州を襲ったのだ。そのうちのいくつかは、風速142メートルあまりに及ぶ最大級のF-5規模であった。竜巻はのどかな田園地帯を荒らし、町を破壊し、その通り道に破壊の爪あとを残していった。この災害で、330人が死亡、5400人以上が負傷し、被害額は6億6千万米ドルにのぼった。よりすぐれた警報システムを作ろうと、国中から気象学の権威が集まり、これらの竜巻が発生した経緯の調査を始めた。その調査で新たに判明した竜巻の構造の実態とは?また、新しい竜巻警報のシステムとは?
砂浜は美しく、緑豊かな、どこをとっても絵になる楽園、それがカリブ海に浮かぶ島、モントセラトである。しかし、この小さな国家は、島南端の豊かな自然の下に危険が潜んでいたことを知り、驚愕することになるのである。1995年、記録上初めてスーフリエールヒルズ火山が噴火したのだ。研究者たちは島に急ぎ、火山の調査を始めた。その結果、島が安全でないことが確認され、住民や観光客を守るため、火山周辺は立ち入り禁止区域となった。それから約2年後の1997年6月25日 午後12時55分、島を大きな揺れが襲った。高温の火山灰と蒸気が突如として柱のように噴き出し、何百万トンもの溶岩が猛スピードで山肌を流れていく。この噴火で、19人の命が奪われ、近隣の村7つが噴出物により壊滅状態となった。「モントセラトの大爆発」では、CGや目撃者の証言、そして調査チームの報告から、1997年の恐ろしい光景を再現する。
テキサス市は合衆国最大の製油施設が集まる地域のひとつである。500ヘクタールの敷地で作られるガソリンの量は、1日に4100万リットル以上にものぼる。2005年3月23日水曜日 午後1時20分、その場所はヒューストン地区でここ15年で最悪の化学事故の現場と化した。普段どおりの定期メンテナンスの最中に、可燃性の高い炭化水素が製油システムに漏れ、その結果巨大なタンクをあふれさせ、換気タワーを通って外に出ていったのである。蒸気はタンクの外にたまり、近くにいたトラックのエンジンで発生した火花から引火した。爆発の衝撃は、8キロメートル先でも感じることができたほどだった。15人が死亡、100人以上が重傷を負うという事態に、当局はビヨンド・ペトロリアム(BP)社の製油施設で発生したこの災害の原因究明のため、ただちに調査を開始した。調査の結果、製油所の安全規定は全面的に見直されることになるのである。
1986年、スペースシャトル「チャレンジャー」の打ち上げを待つアメリカ合衆国フロリダのケネディ宇宙センターは、興奮と期待に包まれていた。民間人を初めて宇宙に送り出すという、重要な試みなのだ。1986年1月28日、生徒や関係者たちは、宇宙飛行士とともに教師のクリスティーナ・マコーリフが民間人で初めて宇宙に飛び立つ瞬間を、打ち上げ地点や、自宅でテレビを見ながら待ち受けていた。午前11時38分、打ち上げられたチャレンジャーは、勢いよく大気圏外に向かっていった。しかしそのわずか73秒後、見物人、そして多くの国民は、シャトルが突然炎に包まれ、空中分解するという恐ろしい光景を目の当たりにすることになるのである。シャトルが爆発した原因を究明すべく、NASA当局は大規模な調査を開始。この悲劇は防げなかったのか、という悲しい質問に答えは出るのだろうか。