ピカソの愛用したボーダーTシャツは、日本ではバスクシャツとも呼ばれる。フランスとスペインの国境にある、バスク地方の漁師たちの仕事着だったことが由来とされるが、諸説あるため真偽は定かでない。海外では水兵服に由来するマリエネール、フランス最大の軍港があるブルターニュ地方に由来するブレトン・シャツとも呼ばれており、第一次世界大戦中に有名デザイナーのココ・シャネルが、水兵服にヒントを得てデザインに取り入れたことから普及した。
高額取引される作品の数々世界中のオークションにて高額取引される作品の数が、ゴッホと並んで圧倒的に多いピカソ。これまでの最高値は、’15年にクリスティーズのオークションで取引された『アルジェの女たち』の1億7900万ドル(時価210億円)。個人売買を除いて、オークションにかけられた美術品としては史上最高額となった。そのほか、’10年にクリスティーズにて1億600万ドルで落札された『ヌード、観葉植物と胸像』、’04年にサザビーズにて1億400万ドルで落札された『パイプを持つ少年』などが話題となった。
ピカソと子供たちピカソは生涯で4人の子供に恵まれた。最初の妻オルガとの間の息子パウロ、マリー・テレーズ・ワルテルとの間の娘マヤ、そしてフランソワーズ・ジローとの間の息子クロードと娘パロマ。その中でパロマだけが芸術の道で成功した。ジュエリー・デザイナーとしてイヴ・サン・ローランやティファニーと提携して数多くの作品を発表し、その一部はワシントンD.C.の国立自然史博物館やシカゴのフィールド自然史博物館に所蔵されている。また、ロレアルとの提携で発売した香水「Paloma」と「Minotaure」はロングセラーとなっている。
ピカソと映画界映画界との関りも少なくなかったピカソは、生前に何度か映画に出演している。アンリ=ジョジュル・クルーゾー監督の『ピカソ‐天才の秘密』(’56)などのドキュメンタリー映画のほか、ジャン・コクトー監督の『オルフェの遺言‐私に何故と問い給うな‐』(’60)にもカメオ出演した。また、娘パロマもワレリアン・ボロフチック監督の『インモラル物語』(’73)に女優として出演している。
ピカソと戦争生涯で第一次世界大戦、スペイン内戦、第二次世界大戦を経験したピカソだが、そのいずれの戦争にも直接は関わらなかった。ただしファシズムに対しては強い嫌悪感を抱き、スペイン内戦に勝利して国家元首となった独裁者フランシス・フランコのことも死ぬまで認めなかった。なお、スペイン内戦ではフランコ率いるファシスト右派をドイツとイタリアが支援・参戦。そのフランコの依頼で1937年にドイツ軍は地方都市ゲルニカを空爆し、この事件を基にしてピカソは名作『ゲルニカ』を描いた。
ピカソと政治自他ともに認める共産主義者だったピカソは、政治的な活動こそ積極的に行わなかったものの、1944年から亡くなるまでフランス共産党に在籍していた。当時のソビエト政府から国際レーニン平和賞を授与されたこともある。
フランソワーズ・ジローの活躍フランソワーズ・ジローはピカソと別れた後に2度結婚しており、2番目の夫はポリオワクチンの開発者として世界的に有名なアメリカの医学者ジョナス・ソーク。この結婚でアメリカに移住した彼女は、ニューヨークとパリを拠点に画家として創作活動を継続。その功績を認められ’90年にフランス政府からレジオンドヌール勲章を授与されている。96歳の現在(2018年5月現在)もニューヨークで活動しており、各地でコンスタントに個展を開催。2010年には東京でも日本初の回顧展が開催され話題になった。
ピカソ役を演じているアントニオ・バンデラスは、若い頃にニューヨークでピカソとフランソワーズ・ジローの娘パロマに会ったことがある。その際、「目を閉じてあなたの声を聞いていると、お父さんの声にそっくり」と言われたという。
香水で当時の気持ちにフランソワーズ・ジロー役のクレマンス・ポエジーは、演じる役柄ごとに自分のイメージする香水を付けることを習慣にしている。香りを変えることで、役に入るきっかけが掴めるため。本作では1920年代に発売されたシャネルの22番を使用している。
ナショナル ジオグラフィックとハンガリーのパイオニア・プロダクションが提携し、ブダペストで撮影された本作。ブダペストは近年、ハリウッド映画のロケ地として引く手あまたで、最近では『オデッセイ』や『ブレードランナー2049』、『レッド・スパロー』などがブダペストで撮影されている。パイオニア・プロダクションが関わった作品としては、『アトミック・ブロンド』やアカデミー賞4部門候補の『マッドバウンド 哀しき友情』、『ドント・ブリーズ』などがある。
アントニオ・バンデラス主演で描くパブロ・ピカソの人生。ピカソがスペインのマラガで誕生した1881年と、既に世界的な名声を確立した1937年を起点に始まる。そして1899年、青年となったピカソが初めてパリを訪れると、彼の後の人生に多大な影響を与える出会いが…。一方、名声と共に複数の愛人もいる1937年のピカソは、スペインの地方の町ゲルニカが爆撃されたのを期に、大作に取り組み始めていた…。
1940年以降ドイツ軍がフランスに侵攻。フランス各地のアトリエや別荘で過ごすピカソの生活にも様々な影響が出ていた。女性関係では、ドラ・マールとマリー=テレーズが鉢合わせする事件が起きるが、どちらとも別れられないと悟る。一方で、長らく2人から絵のインスピレーションを得ていないと、新たな刺激も望むのだった。時は遡って1900年パリ。画商のマニャックのつてで絵が売れ始めるが、求められるものを描くことに疑問を抱く。
1943年パリ。新たな刺激を求めて、フランソワーズ・ジローへの興味を示したピカソだったが、訪問を受けると冷たく追い返す。フランソワーズへの気持ちは徐々に大きくなるものの、彼女の興味が“偉大なピカソ”であることに抵抗を覚えて、素直に力を貸せないのだった。一方、1902年のパリでは、青年ピカソの元に詩人のマックス・ジャコブが訪ねてくる。互いの才能を認め合う2人の、その後40年間に及ぶ友人関係の始まりだった。
1944年パリ。マックス・ジャコブがゲシュタポに連行された。詩人のジャン・コクトーが保釈を求める嘆願書を作って署名を集めるが、ピカソは自分が関わると逆効果になると断る。またフランソワーズとの愛人関係が始まったピカソだが、ドラ・マールとも微妙な関係を続け、それがドラの心をむしばんでいく。一方1905年、詩人のアポリネールと知り合い、片思いだったフェルナンド・オリヴィエと結ばれ、絵画の新境地を開きつつあった。
1946年パリ。ケガをして入院中のフランソワーズを見舞ったピカソは、会えなかった間の寂しさを語り、関係を復活させようと説得する。だがピカソの激しい愛情表現は時に常軌を逸して見えるのだった。ピカソは若き日のパリでも、折につけ感情を爆発させていた。収集家のスタイン兄妹に紹介されたマティスに対抗心を燃やし、嫉妬心からフェルナンドをアトリエに閉じ込めて死の危険にまでさらす。だがようやく大作を仕上げるのだった。
1946年パリ。一緒に暮らし始めたピカソとフランソワーズは、お互いに翻弄されながらも相手への愛情を深めていくのだった。一方1908年のパリでは、ピカソの描いた「アヴィニョンの娘たち」が画商カーンヴァイラーの目に留まる。また画家仲間のブラックがこの絵に刺激されて新たなスタイルを模索し始めた。アヘンの常用者でもあった隣人の自殺をきっかけにアヘンを断ったピカソは、ブラックとともにキュビスムの追求に没頭していく。
1912年、ピカソはフェルナンドと別れエヴァと付き合い始める。その頃からピカソの絵に人気が高まり裕福になっていく。やがてフランス・ドイツの間で戦争が勃発。ブラックやアポリネールなど友人たちが次々に出征していく。変わって1948年ピカソは共産党員となる一方、フランソワーズとフランスのヴァロリスで暮らしていた。2人目の誕生の間近にポーランドで開催される世界知識人会議に出席。世界平和に向けた活動に関わり始める。
1917年、ピカソはコクトーの依頼を受けてバレエ「パラード」の舞台装飾と衣装に挑むことにする。絵画とは違う表現に楽しむ一方で、ロシア貴族の血を引くバレリーナ、オルガ・コクローヴァに一目惚れ。翌年、結婚すると社交界との付き合いが増えた反面、古い友人たちとは疎遠になる。変わって1949年、フランソワーズがピカソの他の家族たちを交流し始めたことが気に入らないピカソは、ヴァロリスの家を出てパリへ向かうのだった。
1927年。オルガとの結婚を悔いる毎日を送るピカソは金髪の美少女マリー=テレーズを見初め、人目を忍んで付き合いを始める。そして1935年にマリー=テレーズが妊娠。これを機に彼女と同居を始めるが、娘マヤが生まれる頃には息苦しさを感じていた。やがて写真家のドラ・マールと出会い、個性の強い2人は刺激し合い始める。変わって1952年。ピカソがほとんど家に寄りつかない一方で、フランソワーズは自立心を取り戻しつつあった。
1954年、別れた後のピカソとフランソワーズには、それぞれ新たな恋人ができていた。二人の子供たちクロードとパロマを介して付き合いは続いていたものの、お互いの思惑のずれや行き違いによって関係は悪化。ピカソは執ようにフランソワーズの人生を邪魔する。やがてピカソとの日々を綴ったフランソワーズの著書を巡って訴訟にまで発展。だが裁判の終結を機に2人は10年ぶりに電話で言葉を交わし、わだかまりが解けるのだった。