台湾の台北を飛び立って20分後、中華航空のボーイング747型機は突如としてレーダーから消え、広範囲の捜索活動にも関わらず、225人の乗員乗客は全員が死亡した。爆弾やガスタンク爆発の可能性はなく、原因を探る事故調査班は頭を抱えてしまった。しかし彼らは数百の機体の残骸を細かく調べ、ついに機体の小さな破片から事故の謎を解くことに成功。611便の悲劇は22年前に始まっていたことが分かった。
1988年12月21日、ロンドンのヒースロー空港を離陸した直後のパンナム103便が、スコットランドのロッカービー上空で爆発し墜落した。町には破片が降り注ぎ、火災が発生。この惨事で乗員乗客259人全員が死亡し、ロッカービーの住人11人も巻き添えとなって死亡した。2千キロ四方に散らばった破片を調べるうちに、事故調査班はこの機に爆弾が仕掛けられていたことを発見した。103便を墜落させた犯人は誰なのか?
1989年9月、オスロからハンブルグに向かうチャーター機が、突然2万2千フィートの上空から降下し始め海に墜落した。乗客乗員55人全員が死亡し、ノルウェーで史上最悪の航空機事故となった。事故調査班が事故原因を探り当てると、航空業界に衝撃が走った。小さな1本のボルトが飛行機を墜落させていたのだ。事故はどうやって起きたのか?通常の旅客機でも同じ事故が起きうるのだろうか?
1996年11月、ニューデリーを離陸したサウジアラビア航空763便が1万4千フィート上空でカザフスタン航空の飛行機と衝突した。この衝突で両機ともが破損し、らせん旋回しながら墜落。349人が死亡するという、史上最悪の航空機の空中衝突となってしまった。8キロ先にまで焼けこげた2機の残骸が散乱し、それを調べる事故調査班は頭を抱えた。なぜ2機は衝突したのか?誰の責任なのか?再発を防ぐことはできるのか?
1975年4月、ベトナム戦争終結の直前、アメリカのフォード大統領が“オペレーション・ベビーリフト”と呼ばれる緊急作戦を命じた。ベトナムの孤児たちを戦時下の混乱から救い出し、アメリカに連れて行くという。こうして250人近い赤ん坊や子供たちがアメリカ空軍のC5Aギャラクシーに乗せられた。しかしミサイルを避けようと急上昇したために貨物室のドアが吹き飛び、ギャラクシーは墜落した。この悲劇の原因を探る。
2005年8月、チュニジアのリゾート地ジェルバ島に向かっていたチュニインター1153便のエンジンが、地中海上空で突然停止した。緊急降下を試みると、第2エンジンも止まり、機体が海に向かって降下し始めたので、パイロットは海に不時着するという一か八かの賭けに出た。その結果34人の乗客のうち20人が生還し、14人が死亡するという結果となった。後日、事故調査班が突き止めた事故原因は衝撃的なものだった。
2007年1月、アダム航空574便がジャワ海上空で乱気流に遭遇。本来のコースを200キロ近く外れて飛行し、嵐に近づいた。やがて管制塔の必死の誘導もむなしく574便はレーダーから消えてしまい、数日後、漁師が機体の残骸を発見。犠牲者102人という大惨事となった。調査の結果、パイロットの訓練不足やずさんな整備など、アダム航空の過失が露見。インドネシアの航空産業全体に大規模な改善が求められることとなった。
1994年10月31日ハロウィーンの夜、シカゴ上空は厳しい寒さとなっていた。悪天候により、多くの飛行機が上空で着陸待機されられており、その中の1機がアメリカン・イーグル航空41-84便だった。ところが突然、この機はスピンし始めコントロールを失って、パイロットの奮闘もむなしくトウモロコシ畑に墜落。乗員乗客68人が死亡した。調査の結果、原因は非常にまれな天候と航空機のデザイン上の欠陥であることが判明した。