1983年7月8日、リーブ・アリューシャン航空8便はアラスカ州コールドベイからワシントン州シアトルに向かっていた。しかし高度1万9,000フィートで太平洋上を飛行中、4機のエンジンのうち1機のプロペラが離脱、機体下部にあたって穴をあけた。急激な減圧と充満する濃い霧の中、パイロットたちは制御しようとするも、減速することも高度を下げることもできず、操縦桿も動かない。そのまま機体はまっすぐ外洋へと向かっていた。
1996年5月11日、アトランタ行きのバリュージェット航空592便はマイアミ国際空港を離陸直後、謎の爆音と共に機械の故障を知らせるアラームが。電気系統のトラブルかと思われたが、事態は急激に悪化する。客室の床から出火し、機内は煙に包まれる。乗客が逃げ場を失う中、機長は空港へ引き返すことを決断する。しかし、機体は時速約800キロで急降下し、エバグレイズ湿地に墜落。乗員乗客、合わせて110人全員の命が奪われる惨事となった。
2000年10月31日、台風が近づく台北、中正国際空港。ロサンゼルス行きシンガポール航空006便が来襲前に離陸しようとしていた。しかし滑走を始めた006便は制御不能に陥り、激しく横揺れして衝突、大破。生存者は炎上する残骸から脱出したが、乗員乗客179人のうち83人が死亡した。平行する工事中の滑走路に無数の残骸を見た調査員は当初、強風で機体が流されたと考えるが、そこに事故機のスリップ痕を発見。重大な結論に達する。
1997年12月19日、シルクエアー185便のボーイング社737-300型機は、インドネシアのジャカルタから航空会社の本拠地であるシンガポールに飛行中だった。しかし、高度3万5,000フィートを飛行中、急激に右方向に傾いて急降下、ジャングルを流れる川に墜落した。乗客乗員104人全員が死亡したこの事故の原因に捜査官が迫る。当初は機械的な故障が疑われたが、この事故の全貌が明らかになった時、その想像を絶する事故原因に誰もが困惑した。
2005年8月23日、ペルーのプカルパに向かっていたペルー国営のタンス航空204便が激しい嵐に遭遇。パイロットたちは雨と雹に打たれながらも滑走路を探すが墜落してしまう。機体の残骸は広範囲に散らばり、周辺の住人たちによって墜落現場から部品や記録装置などが盗まれてしまう。その結果、事故の原因を解明する重要な手掛かりが失われてしまうが、調査員たちは204便が空港まで6キロの地点で墜落した原因を明らかにしようとする。
1956年。グランドキャニオン上空で2機の航空機が空中衝突。乗客乗員128人全員が死亡した。当時の航空機には現在の様な事故原因を追究出来る装置なども搭載されてはおらず、民間航空委員会の調査官たちは、原始的なツールで衝突原因を解明していくことになる。しかしその結論は、航空システム全体の安全性に関わる、恐ろしい問題を提起するものだった。そしてこの事故以降の空の安全性に対して、大きな影響を与えるものになった。
1979年5月25日。アメリカン航空191便がシカゴを離陸した直後、左主翼からエンジンが脱落。機体のコントロールを失って、瞬く間に地上に墜落した。このアメリカ史上最悪の航空事故で273人が犠牲になる。連邦航空局が事故を起こしたマクダネル・ダグラスDC-10と同型機の運行を停止させる一方、調査チームは、世界でも最も普及する航空機の1つがなぜ空中分解を起こしたのか突き止めようとする。
1978年12月28日。ポートランド国際空港へ向かっていたユナイテッド航空173便の着陸装置に、原因不明のトラブルが発生した。突然、4つのエンジンが停止してしまったのだ。空港へたどり着けなかった旅客機DC-8は、オレゴン州ポートランドの緑多い郊外へ不時着。189人の乗客のうち10人の死者が出る惨事となった。事故原因となった着陸装置の不具合はどのようにして起きたのか、調査団がその真相に迫る。
人気絶頂のロシアのアイスホッケーチームが、2011年シーズン開幕戦のためベラルーシへ向かおうとしていた。彼らを乗せた航空機Yak 42Dは、トゥノシナ空港の滑走路を走り始めた後、離陸することなく滑走路を飛び出しヴォルガ川に墜落。機関士以外の全員が死亡した。世界中のファンがこの悲劇を嘆き悲しんだ。当時の大統領メドヴェージェフは事故の原因究明を要請し、調査団は多大なプレッシャーのもと事実の究明に乗り出した。
2010年4月10日。レフ・カチンスキ大統領らポーランドの政府要人を乗せた航空機が、濃い霧に閉ざされたロシアの軍用空港に着陸しようとして墜落、大統領を始め乗員乗客全員が死亡した。ポーランド、ロシア両国が公式調査チームを派遣。墜落原因の発見に努めるなか、当初は濃霧のなか無謀な着陸を試みたパイロットのミスが疑われた。しかし、単純なパイロット・ミス以外に、もっと多くの要因があることがわかってくる。
2010年1月25日、乗員乗客90人を乗せたエチオピア航空409便はアディスアベバへ向けてレバノンのベイルートを出発。離陸して上昇を始めた409便はすぐに管制官の指示を受けて悪天候を避けるために針路を変えようとするが、その直後に螺旋降下して地中海に墜落してしまう。墜落する時に爆発するのを見たという目撃証言もあり、調査員はテロの可能性を疑う。だが調査を進めて行くった結果、ある問題が事故につながったという結論に達する。
2008年2月21日、サンタバーバラ航空518便はベネズエラのメリダを飛び立ち、カラカスへと向かった。しかし、離陸して6分後、機体が危険なほど地表に近づいていることを知らせる警報が鳴り響く。パイロット達が原因を特定する間もなく、同機は空港から10キロほど離れた山の、標高4000メートル付近に激突。搭乗者46人全員の命が奪われた。山の上の墜落現場へ近づくのは容易ではなく、惨事を引き起こした原因の究明は困難を極めた
2009年6月1日、リオ・デ・ジャネイロから大西洋上をパリに向かって飛行していたエール・フランス447便が墜落した。乗員乗客は合わせて228名。広大な大西洋で消失した機体の捜索は、航空事故史上最も困難な事故調査の1つとなる。懸命の捜索にも関わらず事故機を発見できないまま一旦は回収作業が打ち切られた。しかし事故からほぼ2年、重要部品が奇跡的に発見回収され、墜落の背後にあるショッキングな理由が明らかになる。